社長ブログ
2018.09.29
こどもの為の地域社会について③
やってえー事と、言ってえー事を、地域社会が、いろいろな局面を通じて、子どもたちに教えて。
教訓や説教・小言は、そういう場合に重要な働きを示してきた。祭礼や冠婚葬祭によってその土地で生きていく為の作法を伝承してきたんじゃが。
地域コミニュティーが教育の土台・基礎なんじゃな。地域コミュニティーを土台にしとるからこそ教育は、現実の生活に根付んじゃな。
祭り、盆暮れの行事、冠婚葬祭、青年団といつた行事や組織によって仕来りや掟といった暗黙の了解が伝えられてきた。むろん、これらに、閉鎖性や排他性という弊害はあるが。しかし、だからといって全面的に否定する根拠にはならんはずじゃ。むしろその長所をより積極的に評価し、欠点を改めればえーんじゃけ。
歌舞伎、浄瑠璃、義太夫、能、狂言、講談、浪曲、浪花節、落語、漫談、説法、こういった大衆演芸が教育に一役買っていた。この様な大衆文化を育んできたのが、地域コミュニティーじゃが。
この様な大衆文化の根本には、仏教思想や儒教思想があり。
昔から大衆は、仏教や儒教の思想を大衆文化を通じて自分達の生活の血肉とし、生きる為の指針にしてきたんじゃが。
この様な大衆文化を迷信・俗信と蔑む(価値が低いもの)は、知識人の思い上がりじゃわ。
間違ったリアリズムが横行している。
ここにも客観性、自然主義、科学主義が顔をのぞかせる。
神も仏もありはしない。
神や仏は迷信に過ぎない。それを現実主義、写実主義というなら大きな間違いである。
神を信じるのも、信じないのも、個人の信条の問題であり、現実主義でも、写実主義でも、科学主義でもない。個人の見識に過ぎん。
地域コミュニティーを成り立たせていたのは、インテリが言うところの俗信、迷信、神・仏じゃが。
神や仏の力を借りて地域住民は、自己と土地とのアイデンティティを高めてきたんじゃけ。
教育にせよ、言論にせよ、その主張の意味するところが大切なんよな。
勧善懲悪によって、犯罪を抑止することができたら、それは、それなりに意義があり、それがその世界の現状じゃ。
客観性やリアリズムを装った、偽りの主張の方が質が悪いが。
現実は、きれい事ばかりではないというのが現状なら、悪が栄えたためしなしというのも現状じゃが。要するに、小説にせよ、映画にせよ、作り手の内面の価値観が反映されたものに過ぎんけェ。
なら、主張が明らかなものの方が、受け手に対して誠実なんじゃと思う。
大衆文化を否定する者の多くが、俗ぽいからだという理由にすぎない。自分達の方が、科学的で合理的だと思いこんでいるのである。しかし、それは、思いこみに過ぎない。俗ぽいという大衆文化の方が余程、昔から人間の生活の用に立っているんじゃな。
続く